川嶋 恒男
川嶋 恒男フィリピン軌跡(本誌記載分)

1. 輸送船 「太陽丸」(3000d)にて広島・宇品港から出航

2. 救出後、駆逐艦にてフィリピン・ルソン島西海岸「ガブガオ」に上陸
3. マニラ北方200`リンガエン湾「サンフェルナンド・ラ・ウニオン」
4. ルソン島北部「アパリ島」
5. ルソン島北部「パトリナオ」
軍歴
昭和18・02・01 輜重兵(しちょうへい)第四連隊(堺市金岡町)に現役で入隊。戦時呼称は「中部軍第三一部隊」という。以後約35日間、基礎訓練を受ける。
ご承知の通り、大戦までの日本の軍隊は「国体護持」の大義名分の下、個人の意思に関係なく男子二十歳にして全員徴兵され、国の防波堤として各方面に派遣された。
*国体護持=「建国以来外敵の侵入を一度も許さず、特に明治以後の数度に亘る大戦にも大国を相手に勝利を収めることができたのは、神の加護と国民の総力であり、世界に冠たる大日本帝国である。我々はこれを絶対に守り抜かねばならならぬ」との考え。
18・03・14 満州国東満総省林口の輜重兵第二八七部隊に転属。鉄道、連絡船で一週間を要し、同隊に到着する
18・12・15 かねて噂通りの陰湿な“しごき”の毎日である。道理や理屈の無視された世界は「牛馬以下」とはよく言ったものだ。しかし、かえって「なにくそ」の気概のお蔭で、無事に幹部候補生試験に合格、内地で教育を受けることになる。
18・12・22 往路と同じ経路で博多に到着、民家に分宿。
18・12・23 兵課毎に各地の学校へ区分けされる。久留米第二陸軍予備士官学校に入学。奇しくも中学校の同期で、陸軍士官学校出の荒木常丸中尉が上級士官であった。(有明隊区隊長)
九州の山野は美しく、人情溢れる地であった。特に野外演習の阿蘇外輪山での民家の人々の心からの歓迎や、高良台の演習場等々印象に残る。毎日の訓練は、士官としてのもので、厳しい中にも希望ある日々を送った。満州以来の同僚約20人、各々元気一杯であった。
兵課は輜重兵であり、自動車、輓馬の区分がある。私は輓馬に属したので乗馬訓練が多く、大変疲れるが、また楽しい日々である。約8ヵ月。
19・08・10 同校卒業。見習士官に任官。転属先の命令待ちのため、広島の暁部隊(船舶司令部)に転属。広島市外・鯛尾で待機。手旗信号などの訓練のみ。
19・09・10 フィリピン・セブ島の船舶工兵隊に配属。船待ち。
19・09・20 この時点で同期生は離ればなれとなり、順次各々の任地へ赴く。川嶋・尾崎…フィリピン、大山…北海道、玉木・吉村…シンガポール、笹井…父島。小西・米澤・鶴ヶ関…内地、大野…中野学校。細見…中支(中国)等々。玉木は、10月1日出発(吉村、板垣、清水も共に)。
19・10・20 広島・宇品港を13隻の船団で出航。一路南下。
19・11・06頃 途中10日ほどは無事に航行したが、遂に船団が米軍潜水艦群の襲撃をうけ、殆どが撃沈された。沈む船から辛うじて脱出できた我々生存者は、そのまま長時間海上を漂う。当然部隊は自然消滅。
19・11・08 その時の船団の位置は、バシー海峡のど真ん中であり、水深7000m以上のフィリピン海溝である。幸い漂流約36時間後、友軍の駆逐艦に救助されて、フィリピンに上陸。後日の発表で我々の船の救助率は約7%であった。
19・11・28 上 陸したのはルソン島西海岸の寒村「ガブガオ」と呼ばれ、10数名の警備隊が駐屯していた。丸1日休息の後、移動中の味方のトラック(輜重兵隊)に便乗してマニラ近郊の同隊に到着。マニラへは各地から海没(輸送船が沈められて生き残った者の称)生き残りの将兵が、続々と集まり、第十四方面軍司令部に集合(同僚の尾崎は未だに生死不明)。この間にも絶えず空襲があり、市内各所に火の手が上っていた。
19・11・30 10日程待機の後、第六三碇泊場司令部に転属。
19・12・05 マニラ駅から超旧式の砂糖蔗運搬列車を利用。約8時間を要した。上空を敵機が何度も通過したが無事到着。
同司令部は、マニラ北方約 200kmの、リンガエン湾に面した北サンフェルナンド港にあり、入港する友軍船団の揚陸援助作業が任務である。到着と同時に勤務中隊に配属。中隊長・伊藤中尉、第一少隊長・加藤少尉、第二少隊長・川嶋少尉、第三少隊長・北山少尉。
19・12・15 この頃には、既にここも敵機が出没し、日々攻撃が激しくなって来た。揚陸作業中にも空襲があり、多くの被害を被った。司令官以下総員約 250名。
19・12・27 同島最北端のアパリ港へ至急司令部を移動させるため、私は先遣隊の命を受け、部下30数名を伴って漁船(2トン)3隻に分乗し、夜闇に紛れて出航。堀本軍曹、保崎伍長、西田兵長、清水・上田・田中・小松各一等兵等。
19・12・28 払 暁、北サンフェルナンド港と思われる方角に、突然猛烈な砲爆撃の轟音と夜光弾の閃光が認められた。我々先遣隊の出航と入れ違いに、リンガエン湾に米軍の大艦隊が来襲、司令部は間断ない猛烈な艦砲射撃と空爆を受けたとの事であった。幸い、我々の航行には妨げもなく、無事3日間、海上を前進した。ラオアグ港泊。
19・12・30 早朝、小さい漁村(ラオアグ)に仮泊中の我々の船を敵機に発見され、3隻とも銃撃により忽ち焼失。以後の約 150kmは、徒歩で前進することになる。但し全員士気旺盛。
20・01・01 覚悟を決めた我々はその地で新年を祝い、万難を排して目的地アパリ港到達を誓った。
20・01・03 水牛車数台を調達し、行軍を開始した。
20・01・06 佐藤操司令官が着任し、先遣隊の我々を追及してきた。
20・01・20 それからは、敵機の眼を避けて殆ど夜行軍であった。途中の橋も総て破壊されており、その都度、車や荷物を分解、小分けして肩に担いで渡らねばならなった。また道中、再三土民ゲリラの攻撃を受け、また時にはこちらから先制攻撃を加えつつの難行軍であった。その上、雨季のため連日の雨にも悩まされた。約15日間の行軍でやっと目的地アパリ港に到着した。
しかし、ここも既に敵機が出没し初めており、日本からの船団の入港は望めず、碇泊場としての任務遂行は全く不可能となっていた。艦載機だけでなく、既に占領されたサイパン、テニアンの島々から戦闘機・爆撃機が飛来し、日を追って攻撃が激しくなってきた。
20・01・25 一 方、司令部本隊は、12月28日の、艦砲射撃に追立てられて直ちに出発、目的地までの約 300kmは、全行程徒歩の強行軍であった。高温、多湿、悪疫、栄養失調等の悪条件により落伍者が続出した。残存兵力約 150名。同隊は、1月25日アパリ到着、先遣隊の我々と合流。
20・2月〜8月中旬 敵機の空爆はいよいよ激しくなり、座して死を待つに等しい状況となる。やむなくこの地を捨て、ルソン島東北端のパトリナオ港に向けて約50km移動。ここが最後の拠点となる。
しかし、ここも既に敵機の跳梁下にあり、部隊本来の任務遂行は出来ないと判断し、地上戦闘部隊となる。直ちに湾岸より約3km後方のジャングルに、我々の存在を秘匿した強力な縦深陣地を構築した。陸軍少尉に任官。その後、適時討伐やゲリラ戦にも出撃した。
20・05・15 師団より、最初で最後の命令を持った将校が、兵2名を伴って陣地に到着。命令の要旨は次の通り。
『今後貴部隊は師団の指揮下を離れ、独力にて行動せよ。師団は現在地を捨てて南下する。無線機は破壊する。司令官以下各員の武運長久と御健闘を祈る。天皇陛下万歳。大日本帝国万歳』。
これに因り、我々は全くの孤立無援の部隊となる。手持ちの無線機は既に故障しており、同日処分する。なお、その連絡将校たちのその後の消息は不明。この時点で、碇泊場司令部としての本来の任務は解任され、独立戦闘部隊となる。以後この地を拠点として、前述の如く再三来襲する敵に対して、逆襲戦や遊撃戦を繰返した。
20・5月〜6月 また敵陣地への決死の斬り込みを二度敢行した。6月21日の斬り込みには正木大尉、北山・西川両少尉等5名の大きな犠牲もあったが、その後暫くは、敵から我が陣地への攻撃の矛先が鈍くなった。
その間も、毎日間断なく飛来する敵偵察機のため、昼間は火を焚くことも出来なかった。少しの煙でも飛行機からは容易に発見されるのだ。そのお蔭か、最後まで我々の陣地の正確な位置を掴む事が出来なかったようで、何度かあった敵の警備艇や飛行機からの銃撃は全て的外れであった。
方面軍の特別任務、無線電信班の大野少尉が、戦況悪化のため師団司令部に復帰出来ず、六三碇に合流。
2月以後の約半年間は雨が多く、ジメジメしたジャングルの中で食料、弾薬、医薬品も全く無い悪条件のためにマラリヤ、デング熱、栄養失調で死亡するものが続出し、惨澹たるものであった。
20・06・05 病弱兵、老兵、軍属、船員等々の救出のため戦場離脱を企て、手持ちの大発3隻に燃料・食糧を付け、船員の指揮により台湾に向けて出発させた。これはこの戦況下にあっては、百分の一の可能性を願ってのことであった。しかし折よく軍関係の特殊任務をもって、バシー海峡の島々に詳しい技官、川崎氏が先導者として同乗していたので、7月上旬に台湾に安着したことを後年知った。
20・06・10〜25 部隊の活路確保のため、戦闘可能な兵員40名をもって南方打通路を開拓、途中各所で交戦。
20・08・15 朝から敵機の様子がおかしい。毎日の様に北に向かっていた爆撃機の編隊が飛ばない。偵察機もゆっくり旋回してチラシを撒いている。きっと何かあったのだと直感。
20・09・14 米軍将校が日本の高級将校を伴って、ジープに白旗を立てて我々の陣地へやってきた。初めて終戦を知った。即日米軍キャンプに出頭、武装解除を受けた。悪疫、栄養失調、戦闘などにより残存兵力65名となる。
その後、輸送船で3日間、食糧の支給も殆どなく(突然の輸送で船に食糧の備蓄なしとの理由で)マニラの捕虜収容所(将校と下士官、兵とは別に)に収容された。以後3〜4ヵ月に亘り連日、戦争犯罪の厳重な取調べを受けた。他の部隊では、無実の罪で多くの将兵が断罪、処刑された。
21・04・29 我々将校10名全員、運よく無罪を勝ち取り帰国を許された。この「無罪」は佐藤司令官の、捨て身の陳述と熱意及びその真実性に応えてくれた弁護人の、必死の努力によって奇跡的に勝ち取ったものである。
21・06・20 マニラ港から輸送船にて長崎の諫早港に到着、検疫ののち帰郷したが、故郷の大阪は完全な焼け野原。やっと家族の疎開先である和歌山県伊都郡三好村へ到着、両親の許に帰ることができた。
二つの戦友会

一、「林口会」(りんこうかい)

 昭和18年、旧満州国、林口の兵舎で起居を共にした我々は、1年10ヵ月の訓練を終え、19年9月からそれぞれの任地へ配属され、命を賭けて戦って参りました。
 そして終戦。戦後の大混乱が続き、生活することだけで精一杯でした。しかし次第に世の中が平穏になって来ました。
 
 昭和43年1月、故・林氏の呼掛けで8名が集まったのを皮切りに、かつての戦友が集まる機会を持つようになり、年々人数も増えて来ました。53年7月の集会時に、「林口会」の名称で正式に戦友会を結成。その後は折を見ては集まり、健在を確かめ合い、また旧懐談に華を咲かせると同時に亡き戦友たちの慰霊の祭祀を行っています。

 近年、年毎に人数が減少してきましたが、現存者が最後の1人になるまで、この会を守り、慰霊の誠を捧げて参ることにしております。



二、「六三碇戦友会」(ろくさんていせんゆうかい)

 本文中に記したように、昭和19年10月、私は外征の途中、バシー海峡で船団がアメリカ軍潜水艦の攻撃を受け轟沈した後、救助され、ルソン島で再編成を受けました。

 第六十三碇泊場司令部に配属され、終戦までの運命を共にしました。多くの戦友が命を落しましたが、幸い生き残った我々は、40年4月、靖国神社に10名が集まり戦友会を結成しました(略称 六三碇戦友会)。その後は、毎年欠かさず各地で集会を持ち、慰霊の祭祀を執り行っています。

 この会の方々は林口会よりも高齢者が多く、急激に人数が減少しつつあるのは寂しい限りです。




この作品は「二度と再び悲惨な戦争を繰り返さない」ために同人社を通じて「靖国神社」「日本遺族会」に献本。
実録の活用を委ねました。

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