- 連載 -
第7回 浪花の”いとはん”人情物語 =上=
小山美穂
 最近、幼児虐待とか凶悪犯罪が続いたりして、隣近所の人やいうても、うっかり信用でけへんような、住みにくい世の中になりましたね。ここ20〜30年で社会が進歩しすぎて、その分、人間の心が犠牲になってしもたんかも知れませんね。そう思たら、なんや寂し〜ぃなって、イワシ雲を見上げながら、古き良き日本に思いをはせる今日この頃です。ああ、感傷の秋…。

ご幼少のみぎり

 ところで皆さんは小さい頃、どんな家庭で育たはりましたか? サラリーマン、お役人、お医者さん、先生、八百屋さん、お寺さん、小説家、大工さん、農家…? 私はねぇ、大阪の商家に3人兄妹の末っ子として生まれました。

 大正の初め、祖父・金次郎が、新婚ほやほやの妻(私の祖母)とともに、千円持って和歌山から大阪へ出てきて、金物問屋を始めました。その後、第2次世界大戦で一時休業しましたけど、終戦後、フィリピンから復員してきた私の父も加わって、大阪市の真中で本格的に「小山金次郎商店」を再開しました。

 昭和20年の大阪大空襲でなんにもなくなった焼け跡に、とりあえず建てたバラックの店舗は、商売が忙しぃて建て直す暇もなく、「もはや戦後ではない」て言われてからず〜っと後に私が生まれた(ホンマやで!)ときもそのままでした。その後、私が小学校2年生の時、株式会社の形態にして東大阪市に完成した商業団地へ移転するまで、私ら家族7人はお店の2階の6畳2間で、ひしめき合うて暮らしてました。

六畳二間でいとはんで

 店のある1階の奥には、熊本や長崎、和歌山などから住み込みで働きに来てる従業員の人らの狭い部屋がありました。当時はまだ、私を「いとはん(=お嬢さん)」て、古い方言で呼ぶ年配のお客さんもいてはったけど、そのやんわりした言葉の響き、意外と好きやったねぇ。

 そんな建物やから、あっちこっち隙間だらけ。夜にちゃんと戸締りしたのに、朝みたら、どっかから野良犬が入ってきて寝てたり、大雨の時は外へ出る方が濡れへんとか(そんなアホな!)、マンガみたいな話もしょっちゅうでした。ある時、母に「うちの家は、なんでよそみたいに綺麗とちゃうのん?」て尋ねました。そしたら「これでも良うなった方や。お母ちゃんがお嫁に来た時にやっと2階ができたけど、階段がまだなかったから鉄棒の蹴上がりみたいにして上がっててんよ…」て、笑うてましたけど、サラリーマン家庭から嫁いで来た母は、この環境に馴染むのん、大変やったやろなと思います。

 住環境としては最悪やったけど、若い人ばっかり十数人が忙しく働いてて、活気だけはありました。もちろん「丁稚」の制度なんかとっくになくなってましたけど、事実上そんな扱いをする商家も多かったんか、「小山商店では、家族とお店の人が一緒にご飯食べてる」て聞いて、従業員の田舎のご両親からお礼状が来たことがあると母から聞きました。そやから、私にとっては、ほんまの兄たち以外に、大きいお兄ちゃん、お姉ちゃんが大勢いてるような、そらぁ賑やかで変化に富んだ毎日でしたよぉ。

こばせさけ・るるるるる・ななななな〜

 父は早朝からお店へ。母も、兄たちを学校へ送り出したらすぐ炊事場へ。幼稚園に入る前の私は、ひとり2階で朝食をとって、じっと耳を澄まします。

 皆が揃うた頃、トコトコ階段を下りていくと早速、誰かが「美穂ちゃん、おはよう! これ、何て読むんやったかなぁ?」て声をかけます。「うんっ!おいあくま・こばせさけ・るるるるる・ななななな〜」。…別に、怪しい呪文やありません。【おこるな・いばるな・あせるな・くさるな・まけるな】、て書いて壁に貼ってある教訓を、覚えたての平仮名で意味もわからんと、右から左へ横に読んでるだけ。幼い私のそんな「芸」にひと笑いして、小山商店の1日が始まります。

 けど、子供はやっぱり商売の邪魔。ほとんどは2階で折紙したり、絵本見たりして、おとなしぃに遊んでます。それで退屈してきたら、そ〜っと様子を見に下りて来ます。そしたら、「美穂ちゃん、ええとこ来たなぁ。この郵便、全部に切手貼ってぇな」「そこにある、いらん封筒切り開いて、メモ用紙作ってぇ」て、内職を発注されます。ほんまに猫の手も借りたい忙しさやから、人間の子供やったらさらに上等。バイト料はもらわれへんけど、作ったメモ用紙の一部は、ご褒美にお絵かき用に貰えるねん。

犬も笑うねんで

 いつでも人がようけ出入りしてる小山商店は、近所の用心棒としても頼りにされてました。あるとき隣の家に白昼、空き巣が入り、悪いことにちょうど帰宅した家の人と鉢合わせ。「泥棒やぁ!!」て叫ぶ声に、うちから何人も駆けつけたら、慌てた泥棒は2階の窓からあやまって転落、骨折してそのまま警察病院へ運ばれました。これがほんまの、骨折り損のくたびれ儲け…。

 もっとシリアスな事件もありました。ある夕方、額からダラダラ血ぃ流した男の人がお店に逃げ込んで来て、後ろから煉瓦を手に持ったコワそうなおっちゃんが追いかけてきました。そしたら、父がそのおっちゃんの前で仁王立ちになって、「怪我してるやないか。もうやめとけ!」て制止してんよ。さすがは元陸軍中尉、ものすごい勇敢やったわぁ。

 その時まで近所の人も知らんかってんけど、数軒先に住んではったんが、○×組系△□組の幹部で、怪我させられたんはそこの若い衆やったんです。その頃の組の人は、「素人はんには手ぇ出せへん」て礼儀正しかったですよ。翌日、黒い背広を着た人らが大きなフルーツバスケット持って、ゾロゾロお礼に来はりました。映画のワンシーンみたいで壮観やったよ。「小山はんとこに何かあったら、いつでもワシとこへ言うとくなはれ。若い衆の200人ぐらい、すぐにでも集めまっさかい」。

 その家で飼われてた「チャキ」ていう名前のコリーも、素人さんには手ぇ(前足?)出せへんようにしこまれたんか、賢い犬でした。うちのお店が気に入ってたようで、毎朝、開店と同時に入ってきては、隅っこにつくもって(=はいつくばって)皆のすること眺めてました。特に子供が好きで、遊び相手はもっぱら私。間違えて下駄で足を踏んでも、背中に乗ってもワンとも怒りません。靴をプレゼントしょうと思て、封筒にクレパスで花模様を描いて4つの足に履かせたら、「お手」しながらジ〜ッと待ってるねん。けど、それで立ち上がろうとしたら滑ってドテッ! 皆にゲラゲラ笑われて、チャキも照れくさそうに笑ぅてるねんけど(犬も笑うこと、この時、初めて知りました)、それでも懲りんと毎日やって来ては、また皆にイタズラされてるねん。

 こんな風に、小山金次郎商店では、毎日ほんまに笑いが絶えへんかったわぁ。     
=つづく=
(September 2001)

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