- 連載 -
第10回 浪花の”いとはん”人情物語 =下のA=
小山美穂
 昔の商家には、「年の初めのお客さんが女やったら、その年は商売がうまいこといかん」ていう古〜い言い伝えがあってんてぇ! 今そんなこと言うたら、あちこちの女性団体から袋叩きに遭いそうやねぇ。けど逆に、「最初に入って来たんが女性やったら、その年には女の赤ちゃんが生まれる」とも言われてたそうです。…まぁ、どっちもええかげんな迷信やけどね。

母の“ご懐妊”

 小山家にはすでに男の子が2人いてて、後継ぎのことは心配なかったから、父はいつも母に、「3人めは絶対、かいらしい(=可愛い)女の子産んでや!!」て、無茶なこと言うてたそうです。そこで、2人の子育てがちょっと楽になった頃、両親は商売の方を“犠牲”にして「女の子誕生祈願」をする決心をしました。お向いのおばちゃんに、元旦の朝一番にお店に入って来てくれるように頼んだんです。その噂を聞きつけて、「もっと効き目があるように」て、近所のおばちゃんが3人連れもって来てくれはったんですけど、お正月早々、そんな非科学的なまじないに協力してくれるやなんて、その頃の近所づきあいは思いやりがあったていうんか、のんびりしとってんねぇ。

 その年の春、母の“ご懐妊”がわかると、父は早速、お人形とかママゴト道具など、女の子用の玩具ばっかりを買い込んで来ました。えらい手回しのええこと! 母も、持ち前の鋭いカンで「今度は女の子やわ…」て確信してたそうです。私、小山美穂は、こうしてみんなから望まれ、祝福されてこの世に生を受けた幸せな女の子やったんですよぉ♪

 母は「女の子は身の回りのことぐらい自分でせなあかん」て考えて、私がよちよち歩きを始めた頃から厳しい躾けを開始しました。私も、母の目の回るような忙しさを見てたから、これ以上自分が世話かけられへんなぁと思て、大人のすることを見よう見まねで、一生懸命覚えていきました。
 私が2歳になったばっかりの冬、小学2年生やった下の兄が交通事故で頭蓋骨を骨折、九死に一生を得ました。母はお店の賄いと兄の看病だけで精一杯やから、私はしばらく親戚の家に預けられることになってんけどね、ここで日頃のスパルタ教育がもの言うことになるねんよ。よその家やていう遠慮もあったし、チビのくせに負けん気ぃ強かったから、私はそれまで決して手放せへんかったオシャブリを、知ら〜ん顔して自分の荷物の奥深く隠し、朝晩の着替えも大人の助けを断って、全部ひとりでしてみせました。

 寝る前に、寒さでガタガタ震えながら、脱いだ服を枕もとにたたんでる健気な私を見て(先に寝巻着んと、裸のままで一生懸命たたんでてんてぇ! ちょっとアホやね…)、滅多に人を褒めたことのない親戚のおばちゃんも、「上手にしつけたぁるわ〜!」て感心してたて、母は私が大きぃなるまで何べんも自慢げに語って聞かせてくれました。

あれへんねん ○ンツ〜・・

 そやけど、いっぺんだけ私の乙女心に深い傷を残す事件が起きました。ある朝いつものように、母が下着を入れてくれてた箪笥の引出しを見たら、どういうわけか、○ンツだけがあれへんねん! 母に聞こうにも、すでにお店はてんやわんや。かと言うて、昨日のをもっぺん(=もう一度)はくのも、ちょっと…。ひとり悩んだ末、とりあえずノー○ン(…ていう言葉が当時あったかどうか?)のまま、ズボンをはいて我慢することにしました。けどね、そんな格好でおったらスースーするし、こちょばいし…。しゃあないから、なるべく動かんようにして、何とも情けない気持で時の過ぎるのをじっと待ちました。やがてお店の用事が一段落して、母が「美穂、えらいおとなしいやないの…。どないしたん?」て様子を見に来てくれたときは、まさに地獄に仏。思わず母の胸に飛び込んでワァワァ泣いたん、昨日のことのように思い出します。

 こうして私は、着実に世話のかかれへん子に育って行きましたけど、なんせ普段ほたえて(=ふざけ合って)るんがお店のお兄ちゃんらばっかりでしょ。肝心の女の子の遊びや言葉遣い、仕草なんかが全然身につけへんていう落とし穴がありました。ママゴトとか人形遊びは「おんな子供のすることや」て、見向きもせえへんし(女で子供のくせにやよぉ!)、自分のことを「僕」とまで言う始末。
 それでも親にとっては、かいらしい女の子、父の出張にもよう連れて行ってもらいました。ところが、京都のお得意さんのとこへ行った時、おっちゃんに「僕、ええもん買うたげるわ」て言われてんよ。「え? ボ、ボク…?」振り返って見ても、私以外に誰もいてへん…。またもや小さな自尊心がガラガラと音を立てて崩れたけど、綺麗な和菓子を買うてもらえるんやし、父も黙ってるし、わざわざ「私、女の子やでぇ!」て言うても、おっちゃん困らはるやろなと思て、その日は最後まで「僕」で通しました。けど私、その時スカートはいててんけどねぇ…。

 小山商店では、いつもお兄ちゃんらにおちょくられるから、遊びの時も気ぃ抜けませんでした。「美穂ちゃん、飴あげるわ。手ぇ出してみぃ…。1つ、2つ、3つ…今何時? 4時? 5つ、6つ…」。ほんで、数え終わったら、いっつも1つ足らんねん。落語の『時うどん』(『時そば』)のネタやけど、こんなことでもコロッとだまされる素直な子やってんねぇ。けど、私をなぶって喜んでるんは、お兄ちゃんらだけとちゃいました。

笑顔 絶やさへん

 父も、夕方銭湯に行く前、いつも私に「英会話」と称して「アイ・ゴー・トゥー・ニューヨーク」て大きな声で言わせてました。親の言うことやから何の疑いもせえへんでしょ。「美穂ちゃん、どこ行くの?」て聞かれたら、元気に「ニューヨーク行くねん!」て答えて、「えぇ〜? 歩いてかいな〜?」て、いっつもみんなに笑われてました。

 こんな日常に慣れ親しんでたから、幼稚園に通い始めたときは大変やったわぁ。オヤジギャグ飛ばして周りがシラ〜としてしもたり、歌詞の意味も理解でけへんナツメロ歌ぅて保母さんに注意されたり、「画用紙は裏まで使え」て友達に質素倹約を説いたり…。それでも日頃の訓練の賜物で、はしかい(=てきぱきした)子ぉやったから、保母さんから、よう用事を頼まれました。けど、友達に折紙を配るよう言われたときに、例の『時うどん』をやって、折紙が1枚足らんかった子が泣き出したときは、保母さんから、そらぁ厳重注意を受けてしもたねぇ。

 小山商店での暮らしは、決して豊かでも上品でもなかったけど、家族やお店の人たちの愛情を一杯浴びながら、明るうに、真直ぐに育ててもろて、ほんまにありがたかったわぁ。「三つ子の魂百まで」ていうけど、こうして親から受け継いだ大阪商人の魂を大切に、これからも周りの人たちに感謝して、笑顔を絶やさんように、ほどほどの暮らしをしていけたら、これ以上の幸せはないなぁと思てます。
=おわり=
(December 2001)

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