- 連載 -
第18回 小 春 は ん(その三)
小山美穂
小春 大阪 再出発
 文字通り無一文、無一物からの再出発。若い二人には厳しすぎる試練やけど、 これを何としてでも乗り越えへんことには二人の未来はありません。

 けど、「店はまた一からやり直したらええ」て、カラ元気を出してはみたものの、全てを託した二人の夢が一瞬のうちに灰になるのを目の当たりにして、挫けるな、て言う方が無茶というもの…。さすがの信次郎も、今度ばかりは失意のあまり、故郷が恋しぃてたまらんようになり、ためらう小春を説き伏せて和歌乃屋の女将と信次郎の両親に、五年を超える不義理を詫びる手紙をしたためました。

 「今さら何を! お前らはとっくの昔に勘当や」て一蹴される覚悟はしてましたけど、親の愛情は、子が思うより遥かに深いもんやねぇ。駆け落ちを咎めるどころか、二人の無事と、孫まで出来たことを手放しで喜び、和歌乃屋の女将にいたっては「すぐに帰って来なはれ」と、迎えまで来させんばかりの勢いでした。

 そやからゆうて、おめおめと和歌乃屋へ戻るのはけったくそ悪いし、第一、隣近所に恥をさらしに帰るようなもんでしょ。それよりも今は、仕事の口が多い都会へ出て新しい生活を始める方が得策やろうと考えて、二人は大阪の商家に嫁いだ信次郎の姉のつてを頼って、とりあえず大阪・難波(なんば)に移り住むことになりました。

 大正初期の大阪は、船場を拠点とした商いや物流がたいそう盛んで、見るからに商人パワーに満ち溢れた、そらぁ賑やかな町でした。まだ何のあてもない二人でしたけど、テンポのええ大阪弁が、景気ようにポンポン飛び交うのを聞いてるだけで、体の底から生きる勇気が湧いてくるのを感じました。

 信次郎が最初に見つけた職は、「車引き」でした。人力車は、小春が女学生のときに毎日お世話になってた乗り物。それを今度は自分の亭主が引くことになるとは、なんや皮肉な巡り合わせでしたけど、どこかに懐かしさもありました。小春は毎日、早朝から出かける信次郎を見送っては、自分も針仕事に精を出しました。
遊郭周りで人力車夫 ”小春いのち”の信次郎
 人力車の一番のお得意さんは、近くの遊郭で働く遊女たちでした。ここでもやっぱり、信次郎の男前と気働きの良さに惹かれて、遊女たちは競うように信次郎を指名しました。しまいに車引きの仲間が、“遊郭専門”の信次郎に、地名を取って「松島はん」てあだ名をつけたほどやそうです。内緒の話やけどね、遊女らが気前ようにチップを弾んでくれるから、遊郭は信次郎にとって笑いが止まらんほど割のええ仕事場やったんやてぇ。ほんなら、さぞかし誘惑も多かったやろ、て? …ご心配には及びません。信次郎は小春一筋! どんな綺麗どころにも決して心を奪われることなく、来る日も来る日も、馬車馬のように車を引き続けたそうですよ。

 新しい生活もようやくリズムに乗り、ニ人の間には次女・扶美と長男・一朗が生まれました。長女の茂はもう小学生。職業に貴賎はないとはいえ、親がいつまでも車引きをしてるのは、あんまり格好のええ話やありません。そこで、姉の勧めで警察の試験を受けてみたら見事合格、すぐに近くの桜川警察署に配属されました。

 なんせ“月給取り”は、かつての駅長のとき以来でしょ。安定した仕事と安定した収入があるのは、かえって落ち着かんような、けったいな気分でしたが、ようやく信次郎の心にも、ちょっとは自分のことを振り返る余裕が出来てきました。そこで、以前から目をつけてたドイツ製の高級カメラを、清水の舞台から飛び降りたつもりで買うたんですてぇ。生まれて初めての贅沢に、子供みたいにはしゃいでる信次郎を、小春もまた微笑ましい気持で見守ってました。以来、休日ごとに風景や静物の芸術的写真を撮るのが信次郎の趣味になりました。そしてこの頃から、毎日欠かさず晩酌を楽しむようになったといいます。

 これまで苦労の連続やったし、長いことやってた“サービス業”の癖もなかなか抜けんで、信次郎は警察官になっても相変わらず腰は低いわ、フットワークは軽いわ、困ってる人を見たらよう放っとかんわ…。上司からは「そんなこと警察の管轄外や。面倒見がええのも程々にしとけ」て、いつも注意されてましたけど、反対に地域の住民からは「信さん、信さん」て親しまれ、たいそう人望を集めたそうです。たまに遊郭界隈を警邏してたら「もし…お巡りさん、ひょっとしたら“松島はん”とちゃいまんのん?」て声かけられて、決まりの悪い思いしたこともあったそうやけどね。

 ある日、近くの長屋で、井戸端に置いてあった大根が盗まれたゆうて、女房同士がつかみ合いの大喧嘩をしてると連絡が入りました。同僚の警官は「あんな貧乏長屋、関わるもんやない」て、誰も取り合えへんかったけど、信次郎はたとえ大根一本でも当人にとっては大事件やと考え、一人で長屋に乗り込んでいきました。

 ところが行ってビックリ、家の入口には煤けた洗濯もんが干したぁる。その下をくぐって入ると、座敷は板にムシロを敷いただけ。「これほど生活に困ってる人がいてはるとは知らなんだ…」と内心動揺しながらも、信次郎は大きなひびの入った湯飲みで出された白湯を飲み干しました。途端に、今まで喧嘩してた女房らは「うちらみたいなとこへお巡りさんが来てくれたんも初めてなら、お茶を気持悪がらんと飲んでくれたんも、信さんが初めてや」て涙を流して、その場で喧嘩をやめてしもたそうです。 

 「酒屋の御用聞きと恋仲になったが、身分が違うと親に猛反対されるので、いっそのこと駆け落ちをしたい」と相談に来た医者の娘もいてました。こういう 相談こそ信次郎の専門分野。駆け落ちがどれだけ大変か、身分や職業にこだわるのがいかに無意味か等々、双方に話して聞かせた結果、親も二人の結婚を認め、信次郎が仲人まで引き受けることになったんやてぇ。人生、どんな経験も無駄にはなれへんもんやねぇ。  「色んな人に助けてもろたお蔭で今の自分がある。そやから今度はできる限り人様のお役に立ちたい」ていうのが、その頃の信次郎の口癖でした。

 こんな平和な事件ばっかりやったら、警察官ほど楽な商売はありませんけど、時には体を張って職務を遂行せんなんことも、少なからずありました。ある非番の日の夕暮れ、晩酌でもしょうかと思ぅてた丁度その時、職場の同僚が訪ねて来ました。小声でボソボソ話してるから、小春には内容まで聞こえませんでしたけど何か物騒な事件が起きたようでした。「…道頓堀か。よっしゃ、すぐ行く」。急いで身支度をする信次郎に、小春は「どないしたん?」と訊ねよと思いました。けど、それを遮るように「どうもない。すぐ帰ってくるさかい、ちゃんと戸締りして待っといてや」と言うが早いか、信次郎は自転車に飛び乗って出かけて行きました。

 信次郎が「どうもない」て言うときに限って、実はえらいことが起きてるのを、小春はこれまでの経験から敏感に察知してました。今の様子はただごとやない…。小春は激しい胸騒ぎを覚えながら、必死に信次郎の後を追いました。息せき切って現場へ辿り着き小春が見たものは、道頓堀川に架かる相合橋の上で、二人のやくざの親分が刃渡り一尺はありそうな匕首(あいくち)を手に、今にも刺し違いそうな形相で睨み合うてる光景でした。そして、二人の間には警棒さえ持てへん信次郎が…!

 どうやら、最初に警官が駆けつけたとき、親分らが「お前らみたいな雑魚では埒が開かん。信次郎はんが来るんやったらナシ(話)つけてもええ」て言うたから、急遽、信次郎が呼び出されたようでした。やくざの決闘は、先に相手から目をそらしたり、匕首を手放した方が負け。大勢の野次馬が遠巻きに見てるから、なおさらどっちも引っ込みがつきません。
 信次郎は「話は後で聞く。約束や。それよりおまはんら、嫁はんも可愛い子供もおるんやろ。無駄な血ぃ流すもんやない」と二人を一喝し、「ええか、僕が合図するから、同時に匕首を地面に置くんや。いくで、一、ニの、三!」と号令をかけました。そしたら、信次郎の気迫に圧倒されたんか、二人は揃ぅて、匕首をぱらりと地面に落としたんやてぇ。

 一触即発の決闘シーンを、物陰から固唾を飲んで見守ってた小春は、その瞬間、へなへなとその場にへたり込みました。ようやく我に返ると、夢中で道頓堀へ駆けつける途中どこでどう転んだんか、長い髪はザンバラ、無意識のうちにからげた着物の裾は泥だらけでした。その上、草履もどこかで脱げてしもて、素足のあちこちにできた擦り傷からは、うっすらと血が滲んでたそうです。
―つづく―
(August 2002)

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