- 連載 -
第20回 小 春 は ん(その五)
小山美穂
信次郎と写真コンクール
 15歳と23歳の若さで、着の身着のまま駆け落ちしてから、あっという間に20年近くの歳月が流れようとしていました。 次から次へと行く手を阻む険しい山、深い谷を一つひとつ乗り越えながら、ひたすら走り続けた人生でした。これぞ天職やと思われた警察官の仕事さえ、小春の命と引き換えに諦めざるを得んかった信次郎…。ここらで、ちょっと一休みさせたげたい、と思うのが人情いうもんかも知れませんね。けど、いざ休憩や言うても、長い間の苦労で培われた貧乏性、片時もじっとしてられるはずないでしょ。

 信次郎は、警察官になったばかりの時に大枚叩いて買うたドイツ製のカメラを命の次、いや、小春と家族の次に大事にして、暇をみつけては静物や風景写真を撮り続けて来ました。ちょうど、ある新聞社が写真コンクールの作品を募集していることを知り、「ひとつこれに応募でもしてみよか」という気になったんですて。

 応募作は、見事な懸崖にしつらえた菊の花を接写したもの。なんでも、父から譲り受けた苗を、信次郎が手塩にかけて育てた真紅の珍しい菊やったそうです。そしたら、その写真がみごと金賞に入選、写真展で特等席を飾る栄誉を頂くことになってんよ!

 作品にふと目を留めたんが、主催する新聞社の社長でした。「おや…信次郎はんゆうたら、ひょっとして…?」偶然にも、社長はその昔、神主やった信次郎の祖父に儒学を習ぅた生徒の1人やったということが判りました。人の縁ていうのは、どこでつながってるかわかれへんねぇ。社長は、信次郎が失業中と知るや、すぐに自社への入社を勧めてくれました。元号が大正から昭和に改まる頃のことでした。
家 族
 信次郎と小春の間には、まもなく三女の雅子と、四女の美智子が生まれて、家族は総勢8人の大所帯になりました。そやけど面白いもんで、同じ親から生まれても、生活環境がそれぞれ違ぅたせいか息子2人・娘4人はみ〜んなそれぞれに強い個性の持ち主ばっかりやったそうです。

 長女の茂はご承知の通り、成績抜群で負けん気の強い女の子でした。「こんな子は、世間のことを知り過ぎんうちに早よ結婚させなあかん」と、親があれこれ心配するまでもなく、茂は女学校卒業間もなく、後に大学教授になったお人と大恋愛、ちゃっちゃと結婚しました。

 次女・扶美は小春によう似てとびきりの器量良し。料理や裁縫が大の得意で動物や小さい子供を可愛がる心の優しい子でした。けど、ちょっと“とろい”のがたまにきず。親の勧めるままに、一回りも歳上の紳士服職人の元へ嫁いでいきました。

 小春が難儀したんは、長男の一朗でした。子供の頃から、食べ物の好き嫌いは激しい、学校はサボる、博打で擦っては借金を作る、お嫁さんをもろても浮気はする…ほんまに絵に描いたような放蕩息子やったけど、小春にとっては大事な長男、ついつい我儘を許してしもたんやてぇ。そやから、あまりの乱行に激昂した信次郎が、当時貴重品やった扇風機を投げつけて怒鳴るような大騒ぎも、一度や二度とちゃうかったそうです。

 幸い二人の間には、韓国で生まれた俊明という立派な次男もいてました。俊明は幼い頃から天下の秀才、しかも「聖人君子」とあだ名がつくほど、誰もが一目置く人格者やってんよ。おまけに男前でスポーツ万能。旧制工業高校時代には、明治神宮で行われた弓道の天覧試合に、学校の代表として出場しました。当時、天皇陛下といえば「現人神」。その御前で弓を引くとあって、並み居る強豪も流石に上がってしもて、のきなみ的をはずしましたが、俊明はよっぽど度胸が座ってたんやろね、ただ一人、スパッと金的を射抜いたそうです。

 家族思いという点でも誰にも負けませんでした。工業高校へ進学したのも、勉強嫌いで工業専門学校に入った兄を陰で支えて、一緒に精密機械の会社を作ると言う大きな夢があったからやそうです。在学中に東京の大企業からまたとない就職の誘いを断ったこともありました。「僕は一生、親の面倒を見よと思てます。そやから大阪を離れることはできません」。…せっかくの機会は逃しましたが、すぐにまた今度は大阪の大手家電メーカーの社長から「新しく作る工場を任せたい」ていうお話を戴き、俊明の明るい将来は保証されたも同然でした。信次郎も小春も、自分ら夫婦にはもったいないぐらい、ようできた息子を授かったことを、いつも神様に感謝して暮らしたといいます。
俊 明 逝 く
 新聞社の総務部に配属された信次郎は、持ち前の気配りのよさを発揮して、すぐに重要な仕事を任されるようになりました。けど、当時も新聞社の仕事言うたら、不規則なのが当然やし、同僚は飲んべえが多かってんてぇ。我が家で晩酌、を日課にしてた信次郎も、次第に外で飲むことが多ぅなり、気が付いた時には、なんと給料の大半をお酒につぎ込むようになってしもたんです。ちょっと、信次郎はん、しっかりしてぇな!…当時は昭和初期の世界恐慌に続く第2次世界大戦下、ただでさえ物がない時代でしょ。小春は小さな文房具屋を開き、休みの日には縫い物の内職をしては、だんだん苦しぃなっていく家計を支えました。あ〜ぁ、小春はん、いつになったら楽できるようになるねんやろねぇ…。

 ただ信次郎は、酒癖が悪うなっても、家族への愛情だけは失えへんかったんがまだ救いで、闇物資の情報をあちこちで聞きつけては、家のため食糧や生活用品をせっせと調達してきました。けど、当時女学生やった雅子が大柄でしっかりしてるのをええことに、あろうことか学校帰りに闇のお酒を受け取りに行かせたんには、小春も呆れたそうやけどね。そういう小春も、なけなしのお米を麹と物々交換しては、信次郎のためにせっせと家でお酒を密造(?)したて言うから、長年苦労をともにしてきた夫婦の機微は、他人にはなかなか理解でけへんようやねぇ…。

 昭和18年の春、小春にとっては生涯で最も辛い日がやってきました。俊明にとうとう召集令状が来たんです。「お国のために戦い、必ず生きて帰って来ます」…大勢の人に見送られて颯爽と家を出た俊明の後ろ姿に、小春は最愛の息子との永遠の別れを直感し、同時に自分自身の一生も終ってしもたような脱力感に襲われました。

 女学生の雅子にとっても、これほど寂しいことはありませんでした。「僕はもう親の面倒は見られへんやろ…。雅子、お父ちゃんとお母ちゃんのこと、くれぐれも頼んだで」その時の兄の無念そうな表情は、いつまでも雅子の脳裏に焼き付いて離れませんでした。

 翌19年10月のある夜、小春がふとした気配に目を覚ますと、枕元で俊明がいつもの優しい表情で微笑みかけていました。「あぁ、俊明が今…!!」霊感の強い小春、子供のことなら何でもわかったそうです。そして、数日後に届いた電報…「俊明 昭和19年10月16日 ニューギニアで戦死」・・・。

 残酷な話ですけど、俊明は敵に殺されたんやありませんでした。物資が極端に欠乏した戦地で、病気に苦しむ兵隊たちに、自分の食糧や水まで与え続けたゆえの悲惨な「餓死」やったそうです。小春は来る日も来る日も、ただ泣き暮らしました。「他の子供らは全部おらんようになってもええから、あの子だけは返して欲しい…」子供らにしたら、えらい迷惑な言い草やけど、亡霊のように憔悴しきった小春を、誰一人慰めることもできません。ただ、月日が悲しい記憶をちょっとずつ消してくれるのを待つしかありませんでした。
浪花節だよ 人生は
 終戦で世の中は変わっていきます。この年、信次郎は定年まで勤め上げた新聞社を退職しました。
 しっかり者の雅子は、暫く中学の教員を務めた後、大阪の商家へ嫁いで、お店を切り盛りしていくことになりました。そして、“甘えた”で派手好きの末っ子・美智子は、某商社の重役の長男と結婚、芦屋の大邸宅で優雅な暮らしをしたといいます。

 娘らがみんな片付いて、ほっと一安心…といきたいとこやけど、最愛の息子の戦死が、それからの二人の運命を大きく変えてしまうことになりました。

 俊明と一緒に明るい老後を送るのが叶わぬ夢となり、一朗夫婦と暮らし始めたものの、長男を甘やかし過ぎた“つけ”が一気に回ってきたんか、嫁姑の関係は言うに及ばず、親子関係までギクシャクするようになってしもたんです。

 「俊明さえ生きててくれたら」…今更なんぼ悔やんでみても虚しさが募るだけ。嫁の陰湿ないじめから親を守ろうともせえへん長男が情けのうなって、二人はとうとう住み慣れた?家を出て、兵庫県の山奥にある人里離れた村に移り住んでしまいました。。娘たちは皆、心配して「そんな隠遁生活やめて、うちらと一緒に住もう」て口々に言うたんですけど、そろそろ静かな暮らしが恋しぃなってきた二人は、どこか生まれ故郷を思わせる田舎の風景に心の安らぎを求めてんやろねぇ。

 …けど、住む場所が変わっても、信次郎のお酒好きだけは相変わらずやったそうです。
―つづく―
(October 2002)

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