- 連載 -
第36回 オー! マイ ボス!!  その10
同志の関係
小山美穂
飛び切りの青春
 社長は、柄(から)こそそないに大きい方とちゃいましたけど、学生時代に野球と柔道で鍛えた筋肉質の体はいつまでも健康で若々しく、50歳を過ぎてから始めはったジョギングの効果もあって、歳を重ねるほどに、ますます若返って来てはるようにさえ見えました。

 身分や歳の差には全く頓着せず、誰にでも誠意を尽くし、常に新たな目標に挑戦し続ける社長の 生きかたは、もちろん私の理想でもあったけど、そんなもん一朝一夕に真似できるはずはあれへんねぇ。けど私は、いつやったか社長に言われたことを忠実に守って、自分の人格をちょっとでも磨く努力だけは密かに続けてたつもりやねん。そうして毎日を無我夢中で過ごすうち、あっという間に歳月が流れて行きました。

 「私、入社した時はまだ幼気(いたいけ)な少女やったのに、知らん間に、当時の社長の年齢に追いついてしもたわぁ。ねぇ社長、私が会社に捧げたこれまでの青春、返してくれはる?」。

 私のきわどい発言には慣れっこの社長やったけど、この手の話題だけはつい真に受けて、「…すまんな」て、いつも困った顔しはるねん。「いややわ〜、いちいち本気にせんといて! 青春を捧げたていうことは、それ以上に、よそでは経験でけへんような飛び切りの青春を謳歌させてもろたていうことやん。それに、私みたいなジャジャ馬を長いこと使うてくれてはるだけでも、なんぼお礼言うても足らんぐらいやわ〜」「ん…そうか」。

 「ところで、来月の海外出張、社長と私が同じ飛行機で行ったら、万が一の場合に会社がえらいことになりますね。別の便を手配しましょか?」「まぁ、大丈夫だろう」「そやね。それに、もし社長の乗った飛行機が墜落して、私だけが後に残されたらいややし…」「アホ、なんでオレだけ殺すんだ。君が事故に遭わないとも限らないだろう。オレだって君が急にいなくなったら困るよ」「あはは…ほな、やっぱり同じ便にしとこ〜っと」。人が聞いたら呆れはるかも知れへんけど、半ば本気でこんな危険な会話を交わすこともあってんよ。

晴れ舞台は似合わんわぁ
 その頃の会社は、相変わらず裕福とは言えませんでしたけど、少なくとも、創業以来、社長が最も大切にして来はった"人"という貴重な財産だけは、よそさまに誇れるほどになってたんやないかと思います。それが証拠に、会社に何かおめでたいことがあるたびに、周囲の人らが自分の仕事そっちのけで、ここぞとばかりに知恵やノウハウを持ち寄って、手作りのお祝いの会を企画してくれはったりもしました。特に、社長がそれまでのジャーナリスト生活の集大成とも言える本を出版しはった時の祝賀会には、経済界の長老から、まだ20歳そこそこの若い子たちまで、世代も業種も越えた老若男女が、ホテルの宴会場に入り切れんほど大勢つめかけてくれはりました。

 日頃は、世のため人のために"裏方"に徹してはった社長やから、たまに晴れがましい場所に出たらほんまに照れ臭そうで、正装して出席者一人ひとりにお礼を述べてはる姿は、七五三に詣でる男の子みたいにぎこちない感じやったわぁ。皆さんの祝辞も心のこもったもんばっかりでしたけど、親しいだけに、口の悪い人らも多かってんよ〜。「あんたは文章を書かしたら天下一品か知らんけど、商売だけはいつまで経っても上手にならんなぁ」「社長はんがボ〜ッとして、スカタンばっかりしとるさかいに、小山さんが蔭で支えてくれんかったら、とっくに会社潰れとんでぇ…」「はっはっは、そうかも知れませんなぁ」…横で聞いてる私は冷や汗もんやったけど、そこは太っ腹で単細胞(?)な社長、部下が褒められたというだけで手放しで喜んではったことは、想像に難いことないでしょ♪
けったいなこと言わんといて〜!
 けど、ほんまは私、その頃から社長の表情にちょっと変化が生じ始めたのを直感的に感じててん。若い頃は猛禽類を思わせるほど鋭かった目つきが、どことなく優しぃになってきはったし、一見以前と変わらんような笑顔の中に、ちらりと憂いの表情が覗き、心の底から笑うことがなくなって来はったような気がしてしゃあなかってん。

 そんなある日のこと…。「オレが駆け出しの記者の時代から、喧嘩したり議論し合った企業人たちの多くは、既に頂点に上り詰めたり、あるいは第一線から退いてしまった。オレ自身も、ここ数年がピークなのかも知れないな。だが、とうとう会社を大きくすることができなかったし、後継者となる人材を見つけて育てることもできなかった。まあ、こういう仕事は、一代で終わるべきものなのかも知れんな…」(社長! 何を弱気な!!)。

 「でもな、後継者に恵まれなかった分、欠点だらけのオレを完璧すぎるほど支えてくれる自慢のスタッフを持てたことが、どの社長さんよりも幸運だったと思う。そうだよな、両方を手に入れようなんて贅沢すぎるんだ」(そんなん言われても、私…)。

 「君のことは、これまで"部下"だと思ったことなんて一度もないよ。仕事の大切なパートナー、いや、最高の"同志"だとずっと思って来た。君はこれまで、オレの志を酌んで本当によく力を貸してくれたなぁ。だから次は、自分自身の夢と目標をしっかり定めて、独自の道を進むことを覚えて行って欲しい」…。
 「社長、いきなり真面目な顔して、けったいなこと言わんといて下さいよ〜」「本当にそう思ってるんだから何度でも言うよ。オレは君がいてくれて幸せだった。だから…」「いやや、それ以上言わんといて」「人の言うことは最後まで聞けよ。君には心から感謝してるんだ。だからな…」「もうやめてぇ〜!!」…私は、その続きを聞くのが恐ろしぃなって、思わず事務所を飛び出してしもてん。

お母さんが…!
 それから1ヵ月ほど経った土曜日の朝、大阪に出張で来てた郷里の友人とゴルフを楽しんではるはずの社長から、私の自宅に電話がありました。「実家の母が倒れて、救急車で病院に運ばれたらしい。意識不明だそうだ。オレはこのまま空港に向かう」。努めて落ち着いた口調を保ってはるようでしたけど、社長にとってかけがえのない母上さまが突然の病に襲われた深い落胆が、受話器を通じてピリピリ伝わってくるのを感じました。

 お母さんの病名は、くも膜下出血。故郷の町では最も設備のええ病院で治療を受けたにもかかわらず、お医者さんが呼んでも、旦那さんや孫が手を握っても、意識は一向に戻る気配はありませんでした。ところが不思議なことに、社長がやっとのことで病室に駆けつけた時だけは、一瞬、瞼と指先を僅かに動かさはってんてぇ。そしてその夜、社長がお母さんの手を握って、祈るような気持で、子供の頃の思い出や大阪での仕事のことを語って聞かせたら、お母さんは社長の手を弱々しく握り返し、両の眼からツーと涙をこぼさはったそうです。

 お母さんは、その後も意識が回復することはありませんでしたが、鼻から通した流動食で栄養を摂れるようになり、当分は命に別状はないというところまで様態が安定しはってんてぇ。「最愛の息子がもう一度会いに来てくれるまでは、絶対に生きていたい」ていうお母さんの強い思いが、その驚異的な生命力をもたらしたんやと、私は信じてるんですよ。

 社長はその後も、過密なスケジュールの間を縫うては、大阪と故郷との間を行き来してはりましたけど、ある日、空港から事務所に戻って、覚悟を決めたように呟きはりました。「母に会えるのは、なんとなく、今回が最後だったような気がするんだ…」。

 数日後、みんなの留守中に事務所の整理をしてた時、社長のデスクから何気なく取り上げた大学ノートの間から、1枚の小さなメモがハラリと落ちました。それを見て私、胸がぎゅ〜っと締め付けられてしもたわ。社長が、ものも言えんようになったお母さんに宛てて、切々と綴りはった悲しい悲しい手紙やってんもん…。
… お母さん
 あなたは 私が最も愛し 最も敬い そして最も甘えられる存在だった
 それなのに あなたとともに過ごした日々は なぜか短かった
 多分 私たちは 仏さまの光の中で 命をいただいて生きてきたのですね
 仏さまの光は平等だもの 沢山与えてくださったしるしとして一つだけ 寂しさを与えてくださったのです 与えられすぎないように
 ならば ありがたくいただきましょう その寂しさも 喜びとして …
 社長母子の絆の強さが、私なんかの想像をはるかに越えたもんやということを悟り、私はただ、社長に何の手助けもでけへんことに、もどかしさを募らせるしかありませんでした。
つづく
(February 2004)

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