久留米士官学校卒業時
(昭和19年8月10日頃)
 

                      真夏の悪夢

 昨年の夏は、うだるような暑い日が続いていた。80歳を超えて、私は生まれて初めて入院というものを経験した。病名を告げられた時、最悪の場合は死も覚悟したが、早期発見であったため、内視鏡による軽い手術だけで病巣が根治されたのは幸いであった。点滴など、何本かの管に繋がれてベッドから身動きできない状態で、病室の窓から、真夏の太陽にギラギラ照らされた大阪城をぼんやり眺めながら、私はいつの間にか深い眠りに落ちていた。
               
 獰猛な大蟷螂(オオカマキリ)に変身

 私は、平和な森に棲む1匹の「脚長バッタ」であった。細長い体型だが、強大な後肢と立派な翅を持っているのが自慢だった。暑い暑い夏の昼下がり、私はいつものように木陰でのんびりと休んでいた。自分の運命に大きな変化が起ころうとしている事も知らずに…。

 突然、遠く稲妻が天空を斬り、割れんばかりに雷鳴が轟いた。不吉な予感に襲われ、私は緊張で身震いをした。森の中に妖気が立ち込めたと思うと、土砂降りの雨の中、羽音も高く、恐ろしい昆虫の大群が現れた。大きな目ん球と鋭い鎌を振り上げた怪物だ。それは、大蟷螂(オオカマキリ)の大群だった。

 群れの一際巨大な首領の一声で、私は否応なしに捕らえられ、先ず一番前の両肢に大鎌を持たされ、眼球を前向きに引っ張り出され、あっと云う間に立派なカマキリに変身していた。直ちにカマキリ軍の訓練が始まった。その鎌で他の昆虫、時には蛙やトカゲまでも捕まえて喰う事を教え込まれた。私は自分が急に強くなった事を喜び、舞い上っていた。

 攻撃して必ず相手を斃(たお)す。負けや退却は無い。「大敵は"蟷螂魂"で圧倒せよ」「皮を斬らせて肉を斬れ」「肉を斬らせて骨を斬れ」「攻撃は最大の防御なり」と叩き込まれた。仲間達も、同じように大蟷螂に変身していた。気持も姿の通り獰猛だ。訓練は毎日続いた。



  蟷螂(とうろう)の斧

 或る日、私を含む数百匹は、隣の広大な国へ派遣された。そこは、得体の知れない鳥獣や昆虫、毒蜘蛛が居ると云う恐ろしい国で、既に沢山の先輩達が働いていた。やがて怪物が襲い掛かって来た。猛禽類や獣達は、とんでもない強大な力を持っており、我々"蟷螂軍団"の最大の武器である鎌も、鳥の嘴で一突き、あえなく折れてしまう。桁違いに強い集団が入れ替り立ち替り襲って来た。味方は見る見る斃れ、喰われてしまった。「もう、お手挙げだ」…しかし我々は、戦うよりなかった。

 遂に蟷螂の大軍団は殆ど全滅した。しかし私は、こっそりと混乱に紛れて逃げ出し、少しでも安全な場所を求めて彷徨っていた。「どうしても、死にたくないんだ!」…ふと見渡すと、同じように生き残って来た蟷螂達が、あちこちから集まって来ていた。武器を捨て、元のバッタの姿に戻った我々は、「無意味な戦いは真っ平だ」と口々に云い、家族の待つ平和な森に無事帰れることを心から喜び合っていた。
             
 ・・・・「お父ちゃん、着替え持って来たよ」、聞き慣れた声に目を覚ますと、私は相変わらず、管に繋がれた哀れな姿で、病室のベッドに横たわっていた。今、こうして家族と共に平和に暮らせる幸せに感謝しつつ…。



                         風 化 の 中 で

 無視された"魂の叫び"

 今年も、健康に58回目の終戦記念日を迎えることができた。
毎年この時期、原爆記念や終戦記念の式典が厳かに執り行われ、また、評論家や各界の名士の方々が、新聞紙上で戦争の悲惨さや、靖國神社参拝の是非などについて、様々な意見を述べられる。その文面は、立派なご意見、辛辣なご批評ばかりで、なかなか自分の思いを文字に表せない私は、只管、感服するしかないが、一方、実戦に参加した者にしか解らない魂の叫びには一切触れられていない事に、切歯扼腕(せっしやくわん)の思いがするのも事実なのだ。

 将棋の駒には、王将から歩まで独特の能力がある。その使い方如何で勝負が決するのは云うまでもない。先の戦争では、適材適所の配置により、運よく任務を果たし、満足感一杯の者もおれば、逆に、能力を発揮出来ないまま苦労した者、中には次の展開のために捨石にされ、そのまま命を落とした者など、一人ひとりが異なった道を通って来た。

 弾丸が飛び交う戦闘中には「まさか」と思うアクシデントが数多くあった。激しい弾丸の雨あられの中を、姿勢を低くして避けていたのに、皮肉にも、近くの岩石に跳ね返った弾が後頭部を貫き、あえなく逝った仲間もいる。そんな極限状態を生き延びねばならなかった者の心の内を解るはずもないし、また、考えようという発想もない上滑りな報道が大多数に思えてならない。


              
                         久留米士官学校入学時(昭和18年12月末)



  真実

 以前の手記に記したように、私は、太平洋に投げ出されても36時間の漂流の後に運良く命を取り留めた。だが、一緒に乗船したのに、そのまま船と共に海底深く沈んだ"お国の宝"、20歳前後の男子達の、最期の気持は私でさえ想像できない。「残念」とか「無念」と云う生易しい言葉で表現すべきものではないだろう。遺族は、国から事実を知らされていないし、知るには余りにも辛い事実なので、「名誉の戦死」と思うことで、何とか心の平静を保っておられるのだろう。私の弟は、終戦直前、特攻隊の美名の下に、粗末な飛行機に片道燃料と爆弾を抱いて、敵艦目掛けて突入し、戦死した。それが「軍神」とか「特勲」等の辞一言で片付けられた。私の両親がその事実をどう受け入れていたのか、遂に語る事はなかった。

 私は、漂流から救助された後、すぐさま陸戦に投入された。その地域は、既にかなり戦況の悪い所で、食糧も薬品も全く無かったため、陸戦で実力を発揮できぬまま、病に斃れて死んで行った者も多い。この悲劇を、運・不運で片付けられては堪らない。そして、私自身の戦中の所在・所属・派遣先など、輸送船に乗って以降の戸籍は未だにブランクのままで、何処の役所でどうすれば調べてくれるのかも判らないのが実態だ。

  国敗れて後

 今、国の姿勢はどうだろう。戦後60年近くが過ぎ、世界情勢もすっかり様変わりした今日、先の大戦を歴史の「一頁」に入れて事足れりでよいのだろうか。内外の干渉を懼れて、学校教育に第2次大戦を取り上げるとか、取り上げないとか、ましてや、靖國神社参拝是非の問題など、云々するだけでも馬鹿げている。特に国のお偉い方々の一部は、国民生活の安寧よりも、自らの保身を第一義に考え、上役に迎合し、挙句に、不祥事は罰金や訓戒でうやむやにする体たらくだ。

 今年の異常気象で、米が不作との事。農林水産省が早速動き出したのは大変結構な事ではあるが、充分備蓄米があるので、実際はさほど難しい事ではないと聞く。国民にアピールするため目先の事に対応していると考えるのは、いささか穿った見方だろうか。

 もしも備蓄米がなかったらどうだろう。そしてこの異常気象が3、4年続いたらどうなるだろう。「食べ物がなくなったら、コンビニに行けばいくらでも売っている」と今の子供達は本気で云うと聞いて、私は、若い世代の言葉を借りれば、驚きの余り"固まって"しまった。無理はない。テレビをつければ、ド派手な画面と大音響と共に、贅沢競争・無駄競争が、野放し状態で繰り広げられている。今の豊かさと浪費が恒久不変のものだと思い込み、もっと美味しいもの、もっと珍しいものを次々求めては、すぐに飽きていく。

 そして、もっと恐ろしいことに、他人を犠牲にしても自分の楽しみのために金品や命まで奪う事件が続発している。テレビ、新聞、雑誌、あらゆるメディアの報道の内容は、何の規制もなく垂れ流し状態だ。特に、殺人事件やスキャンダル報道などは取材の腕の見せ所と云わんばかりに、これでもか、これでもかとエスカレートし、目を覆いたくなるものが氾濫している。この惨状を、苦々しい気持で見ている老人は私だけではない筈だ。

 悪いことをした者が罰せられるという、"人"として当然の筋書きは、もはや『水戸黄門』の番組の中だけのものになってしまったのだろうか。



  もう、あまり時間はないのです

 今一度、戦前・戦中・戦後の窮乏生活のことを、国民、特に戦争を知らない世代に詳しく、正しく知らせる必要があるのではないだろう
堺市金岡の輜重兵連隊入営直後
(昭和18年2月)
か。我々のような戦争経験者は、急激に減少している。もう、あまり時間はない。

 物知り顔で戦争の是非を云々しているインテリゲンチャの皆さんや、政治家の方々の中には、僅か5、60年前、食糧もなく、涙で堪えた「学童疎開」のご経験をお持ちの方がおられるだろう。エコだ、リサイクルだ、と殊更に云わなくても、衣服や靴下に継当てをして身に着けねばならなかった物資の乏しい時代をご記憶の方もおられるだろう。私は、そういう方々にこそ、率先して国民を指導して頂きたいと心からお願いする次第である。

 そして、国民に最も浸透し易いテレビ放送に関わる方々は、ただ、視聴率を取れればいい、物が売れればいいというスタンスを反省し、これからの日本を支えて行く若い世代に、良識ある情報を提供して欲しい。今が最後のチャンスだと思う。

 「礼儀・信義・質素」を合言葉に、芋や大根飯で辛うじて命を繋ぎつつ、それでも逞しく、国のために捨て身で尽くした時代の「国民精神」が、今日の日本の繁栄の礎である事を、絶対に忘れないで欲しい。

 戦場から無事に持ち帰った大切な命を、今日まで健康に永らえる事ができたのを感謝し、我が来し方を回想すると同時に、今の日本社会の現状を見るにつけ、決して明るい未来を想像することはできない58年目の夏に・・・。
                                               第4話  完




川嶋 恒男 軍歴へ

この作品は「二度と再び悲惨な戦争を繰り返さない」ために同人社を通じて「靖国神社」「日本遺族会」に献本。
実録の活用を委ねました。
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